陰陽師 安倍 晴明の時代 近年、小説や映画で話題になった陰陽師。 平安時代以前より、日本の歴史に大きな影響を与えていました。 特に有名な平安時代の陰陽師「安倍 晴明」の時代を確認しましょう。
安倍 晴明(あべの せいめい/はるあきら/はれあき) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 延喜21年(921年)? 〜 寛弘2年9月26日(1005年10月31日)) 平安時代の最も有名な陰陽師であり、鎌倉時代から明治時代初めまで 陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖である。 当時最先端の呪術・科学であった「天文道」や占いなどの陰陽道の技術に関して 卓越した知識を持ったエキスパートであり、平安貴族たちの信頼を受けた大陰陽師で、 その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいった。 道摩法師(蘆屋道満)とはライバル関係にあった。 また、平将門の子の平将国が安倍晴明ではないかという説もある。 後世に陰陽道の経典となる秘伝書 『??内伝』(ほきないでん、別名『金烏玉兎集』)の著者に仮託されている。 史実上の晴明 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 安倍晴明は、安倍氏の伝える系図によると、 大膳大夫の官にある下級貴族安倍益材(あべのますき)(安倍保名)の子として 摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれた。 阿倍仲麻呂の子孫を称するが、系図では竹取物語にもその名が登場する 右大臣阿倍御主人の直系の子孫であるという説が有力である。 また、一部の古文書では安倍朝臣清明ではなく 安倍宿禰清明と記載されるものが散見されるため、 「朝臣」を「宿禰」の上位に厳格に位置づける当時の慣習から考えて、 安倍御主人からの安倍朝臣姓の家系ではなく、 渡来人系の難波吉士族の難波忌寸(のち宿禰)の末裔ではないかとする説もある。 いずれにしても古代から続く名門の家柄に生まれている。 生年は定かではないが、寛弘二年九月(1005年)に 85歳で亡くなったと記録されていることから逆算して 延喜二十一年(921年)生まれと推定される。 幼少の頃については確かな記録がないが、 陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、 天文道を伝授されたということになっている。 確かな記録に現れるのは960年で、 当時天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は 村上天皇に占いを命ぜられた。 出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺われる。 その後、天文博士の官に任ぜられる。 979年、59歳の晴明は皇太子(のちの花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行う。 このころから花山天皇の信頼を受けるようになったようで、 記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。 花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになったことが、 道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から分かる。 陰陽師として名声を極めた晴明は、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官を歴任し、 位は従四位下にのぼった。さらに天文博士や陰陽助(陰陽寮の次官)に 晴明の二人の息子安倍吉昌と安倍吉平が任ぜられ、 安倍氏は晴明一代の間に師忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家となっていった。 安倍晴明(あべのせいめい) もうひとつの解説 921年(延喜21年)-1005年(寛弘2年) 後の土御門氏の祖。遣唐使に参加して陰陽の本場城刑山で伯道上人(白道仙人とも)に学び、 帰国すると特殊化・秘伝秘術化した独特の陰陽道を築き上げた。 「占事略決」や、陰陽道の名典「金烏玉兎集」を著したとも言われているが、 伯道上人に教えを受けた際にこれを授けられたという説も多い。 陰陽諸道の中で最も難しいと言われていた天文道に長じ、 朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条の6代天皇、 藤原道長・藤原実資に重用されて影響力をふるった。 天文博士を勤めた後には陰陽寮を超えて主計権助・大膳大夫・左京権大夫 大国である播磨守などの官職を歴任して「従四位下」まで昇進した。 時の権力者の影となり日なたとなり活躍したために出世したと言われている一方で、 極めて謎の多い人物でもある。 セーマン(晴明桔梗・清明紋・五芒星)という呪符を使い、 人形(ひとかた)を使って「青龍」・「勾陳」・「六合」・「朱雀」・「騰蛇」 ・「貴人」・「天后」・「大陰」・「玄武」・「大裳」・「白虎」・「天空」の 式神(しきがみ)十二神将を自由に駆使し、驚異的な呪術を展開したとされている。 また、没後かなり早い段階から“鳥が話す言葉を理解できた”、 “母は信田の森に棲む「葛葉」という白狐だった”、 “両性具有者だった”など、その超人ぶりと特異性をあまりにも誇張した 数多くの伝説が残っており、古事談・大鏡・宇治拾遺物語・古今著聞集・今昔物語集 ・體源抄・日本紀略・権記・平家物語・大江山絵詞・元亨釈書・源平盛衰記・ 発心集・北条九代記・私聚百因縁集、歌舞伎や文楽の題目信田妻(しのだづま) ・蘆屋道満大内鑑、仮名草子安倍清明物語、 はては近年の夢枕獏による小説や岡野玲子による漫画、 数多くの映画化・ドラマ化やゲームのキャラクターなど、 中世から近世・現代に至るまであまたの著作の題材として取り上げられている。 安倍晴明が登場する作品 平安・中世文学 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 平安・中世文学 晴明が死んだ11世紀のうちに、早くも晴明は神秘化されていった。 歴史物語の『大鏡』や説話集の『今昔物語』『宇治拾遺物語』『十訓抄』は いくつかの晴明に関する神秘的な逸話を載せる。 『大鏡』 帝紀「花山天皇」 花山天皇が帝位を捨てて出家しようとしたとき、晴明は天文を見てそれを察知し、 式神を使って朝廷に急報しようとしたが、 ちょうどそのとき天皇は寺に向かっているところだった。 『今昔物語』 「安部晴明随忠行習道語」 1.晴明が幼少の頃、賀茂忠行の夜行に供をしているとき、 夜道に鬼の姿を見て忠行に知らせた。 忠行は晴明が優れた才能をもつことを悟り、陰陽道のすべてを教え込んだ。 2.陰陽道の大家となった晴明は、あるとき播磨国から来た陰陽師に術比べを挑まれたが、 いともたやすく懲らしめた。 3.仁和寺の寛朝僧正のところで、同席した公卿たちに陰陽道の技で カエルを殺してみせるようにせがまれ、術を用いて手を触れずにカエルを真平らに潰した。 4.晴明の家では式神を家事に使っており、人もいないのに勝手に門が開閉していた。 「播磨国陰陽師智徳法師語」 播磨国の陰陽師、智徳法師が方術で海賊を捕らえた物語だが、 末尾に「智徳はこれほど優れた陰陽師でありながら晴明にはかなわなかった」と 記されているので、前の物語に登場した播磨の陰陽師は彼のことだとわかる。 『宇治拾遺物語』 「晴明蔵人少将封ずる事」 晴明があるとき、カラスに糞をかけられた蔵人少将を見て、カラスの正体が 式神であることを見破り、少将の呪いをといてやった。 「御堂関白の御犬晴明等奇特の事」 藤原道長が可愛がっていた犬が、あるとき主人の外出を止めようとした。 驚いた道長が晴明に占わせると、晴明は式神の呪いがかけられそうになっていたのを 犬が察知したのだと告げ、式神を使って呪いをかけた陰陽師を見つけ出して捕らえた。 十訓抄にも同様の記述あり。 源 博雅(みなもと の ひろまさ) 小説「陰陽師」では、安倍晴明の友として、活躍しています。 伝えられている源 博雅とは? 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 延喜18年(918年)〜 天元3年9月28日(980年9月28日) 平安時代の貴族、雅楽家。克明親王の第1皇子。醍醐天皇の孫。 母は藤原時平の娘。極官が非参議従三位皇后宮権大夫なので 博雅三位(はくがのさんみ)と呼ばれる。管弦の名手。長秋卿。 臣籍降下し、源姓を賜る。934年に従四位下に叙せられる。 947年に中務大輔。959年に右兵衛督。965年に左中将。 974年に従三位皇太后宮権大夫。 雅楽に優れ、楽道の伝承は郢曲を敦実親王に、筝を醍醐天皇に、琵琶を源修に、 笛は大石峰吉、篳篥(ひちりき)は峰吉の子富門と良峰行正に学んだ。 大篳篥を得意とするが、舞や歌は好まなかった。 951年、内宴で和琴を奏する。 966年、村上天皇の勅で「新撰楽譜(長秋卿竹譜)」(別名「博雅笛譜」)を撰する。 現在でも演奏される「長慶子」の作曲者。 また960年のいわゆる「天徳四年内裏歌合」に講師として参加、 歌を詠ずる役であったが、帝の前で緊張し、出されていた歌題とは 異なる歌を読んでしまうという失敗をしたというエピソードもある。 朱雀門の鬼から名笛「葉二(はふたつ)」を得、 琵琶の名器「玄象」を羅城門から探し出し、 逢坂の蝉丸のもとに3年間通いつづけて 遂に琵琶の秘曲「流泉(りゅうせん)」「啄木(たくぼく)」を伝授されるなど、 今昔物語などの多くの説話に登場する。 また、言い伝えによると酒に強く、酒豪であったともいわれている。 性格について藤原実資はその日記「小右記」で 「博雅の如きは文筆・管絃者なり。ただし、天下懈怠の白物(しれもの)なり」 と評している。 道摩法師(どうまほうし)蘆屋 道満(あしや どうまん) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 道摩法師(どうまほうし)は、陰陽道の名門とされた 道摩家の人物で、平安時代、一条天皇の頃の大呪術師。 江戸時代の地誌『播磨鑑』によると 播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とされる。 陰陽道の祖とされる安倍晴明とライバル関係にあり、 式神対決で晴明に敗れ、播磨へ追放された。 一般的には、蘆屋 道満(あしや どうまん、蘆屋は芦屋とも書く)として知られる 安倍晴明のライバル。晴明に勝るとも劣らないほどの呪術力を持つ。 安部の『金烏玉兎集』を盗写したという伝説は、のちに浄瑠璃、歌舞伎に脚色された。 セーマンドーマン 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 セーマンドーマンまたはドーマンセーマンとは、 三重県鳥羽市及び志摩市の海女が身につける魔除けである。 このはっきりとした謂われは伝わっていない。 磯手拭や襦袢などに、星形の印(セーマン)と格子状の印(ドーマン)を 貝紫で描くまたは黒糸で記し、海での安全を祈願する。 同じく磯ノミには彫刻する。 星形は一筆書きで元の位置に戻り始めも終わりもないことから 魔物の入り込む余地がなく、格子は多くの目で魔物を見張るといわれる。 陰陽道と関係するのではないか、ともいわれ、 星形の印は安倍晴明判紋、格子状の印は九字紋と同じ形状である。 このセーマンは安倍晴明、ドーマンは芦屋道満の名に由来するともいわれる。 安倍晴明判紋は晴明桔梗とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。 九字紋は横5本縦4本の線からなる格子形(九字護身法によってできる図形)をしている。 ただしドーマンの線数は必ずしも9本とは限らない。 陰陽道(おんみょうどう) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として 日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系。 「いんようどう」とも読む。陰陽道に携わる者を陰陽師といい、 陰陽師集団のことも陰陽道と呼ぶ。 かつては専門の研究者によっても、陰陽家の思想が日本に伝わったものが 陰陽道である、と説明されてきた。 しかし、近年では、陰陽五行説が、自然界の万物は陰と陽の二気から生ずるとする陰陽思想と、 万物は木・火・土・金・水の五行からなるとする五行思想を組み合わせ、 自然界の陰陽と五行の変化を観察して瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う 実用的技術として日本で受容され、神道、道教、仏教などからも様々な影響を受け取って 日本特異の発展を遂げた結果誕生したものと考えられている。 葛の葉(くずのは) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 葛の葉(くずのは)は、伝説上のキツネの名前。 葛の葉狐(くずのはぎつね)、信太妻、信田妻(しのだづま)とも。 また、葛の葉を主人公とする人形浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』、 および翻案による同題の歌舞伎も通称「葛の葉」と呼ばれる。 伝説の概要 摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた 安倍保名(伝説上の人物とされる)が和泉国和泉郡の信太の森(現在の大阪府和泉市)を訪れた際、 狩人に追われていた白狐を助けてやるが、その際にけがをしてしまう。 そこに葛の葉という女性がやってきて、 保名を介抱して家まで送りとどける。 葛の葉が保名を見舞っているうち、 いつしか二人は恋仲となり、 結婚して童子丸という子供をもうける。 しかし童子丸が5歳のとき、葛の葉の正体が 保名に助けられた白狐であることが知れてしまう。 次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく。 恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉 この童子丸が、陰陽師として知られるのちの安倍晴明である。 安倍晴明の時代の天皇 安倍晴明の時代に残っている記録は、天皇家を中心としたものがほとんどです。 当時の天皇を考察していけば、時代背景などが、明るくなるでしょう。 醍醐天皇(だいごてんのう) 第60代。在位:寛平9年7月3日 (897年)- 延長8年9月22日(930年10月16日)。 はじめの諱は維城、のちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 元慶9年1月18日(885年)源定省の長男・源維城として生まれる。 仁和3年(887年)、父が皇籍に復帰して天皇に即位した事に伴い、 皇族に列する事になった。寛平元年(889年)親王宣下、同5年4月2日立太子。 同9年7月3日元服し、同日践祚。 父帝の訓示を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。 その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かず形式上の親政を行っていたため、 後世「延喜の治」と崇められたが、昌泰4年(901年)、時平の讒言を聞き 菅原道真を大宰権帥に貶めた昌泰の変は、聖代の瑕と評されることであった。 だが近年では、この事件を天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための 行動であったと考えられている。 時平も初めての荘園整理令を発布したりして政治の刷新に意欲的であり、 国史『日本三代実録』を完成させ、また律令政治の基本法である 延喜格式の撰修に取り掛かったりしたが、完成に至らぬまま早世し、 弟藤原忠平らがその志を継いで延長5年(927年)に完成した。 天皇はまた和歌の振興に留意し、延喜5年(905年)、『古今和歌集』撰進を 紀貫之らに命じた。自身も和歌に堪能で、勅撰集に43首入る。 家集『延喜御集』もある。20巻にわたる33年間の宸記『延喜御記』は 諸書に引かれている逸文のほかは現存せず、 村上天皇の御記と併せて『延喜天暦御記抄』とよばれて伝わる。 天皇ははじめ中宮藤原穏子との間にあげた長子保明親王を東宮の座に据えたが、 早世したためその子慶頼王を立坊させるも、やはり夭折した。 一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂され、延喜23年(923年)になって、 天皇は道真を左遷した詔を破棄し、右大臣に復し贈位を行うなどその慰霊に努めた。 延長8年9月22日(930年10月16日)、病篤きによって皇太子寛明親王に譲位し、 その7日後、延長8年9月29日(930年10月23日)に崩御。 醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下において土葬された。 朱雀天皇(すざくてんのう) 延長元年7月24日 (923年)- 天暦6年8月15日(952年) 在位:延長八年11月21日(930年) - 天慶九年4月20日(946年) 第61代の天皇。諱は寛明(ゆたあきら) 延長4年(926年)、東宮となる。 寛明立太子の背景には二代にわたる東宮の夭折があり、 母穏子は、怨霊を恐れて、幾重にも張られた几帳の中で寛明を育てたという。 延長8年(930年)醍醐天皇の崩御を受けて同年延長8年9月の践祚後、 11月に8歳で即位。政治は、伯父忠平が摂関として取り仕切っていた。 治世中の承平5年2月(935年)、平将門が関東で反乱を起こし、 次いで翌年には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こした。(承平・天慶の乱) 懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文を征夷大将軍に任命して 将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。 翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束した。 治世中はこのほかにも富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多く、 それが原因かどうか、朱雀天皇は早々と同母弟成明親王(後の村上天皇)に譲位し、 仁和寺に入った。しかしその後、後悔して復位の祈祷をしたともいう。 天暦6年(952年)に出家して、その年に30歳で亡くなった。 村上天皇(むらかみてんのう) 延長4年(926年)6月2日 - 康保4年(967年)5月25日 在位:天慶9年(946年)4月20日 - 康保4年(967年)5月25日 第62代。諱は成明(なりあきら) 天慶7年(944年)4月22日に皇太子となり、同9年4月20日に朱雀天皇の譲位により践祚。 先代に続いて天皇の外舅藤原忠平が関白を務めたが、 天暦3年(949年)に忠平が亡くなるとそれ以降摂関を置かず、 延喜時代とともに天皇親政の典範とされた。 しかし実際には政治の実権は依然摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にあり、 親政は表象にすぎなかった。 平将門・藤原純友の起こした承平・天慶の乱(935年 - 940年)の後、 朝廷の財政が逼迫していたので倹約に努め物価を安定させた。 文治面では、天暦5年(951年)に『後撰集』の編纂を下命したり、 天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行したりするなど、 歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価される。 琴・琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえよう。 天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された。 しかしその反面、この時代に外戚政治の土台が一段と固められ、 吏治にも公正さが失われる一方、天徳4年の内裏焼亡をはじめとする数々の災難があった。 康保4年(967年)5月25日、在位のまま42歳で崩御。 天皇号を持つ天皇は、村上天皇以後、江戸期の光格天皇まで900年近くの間なかった。 また、息子具平親王の末裔は「村上源氏」として、 以後の宮廷政治において大きな影響力を与えるようになる。 冷泉天皇(れいぜいてんのう) 天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日) 在位:967年 - 969年 第63代 村上天皇の第二皇子。憲平(のりひら)親王 母は藤原師輔の娘中宮安子。円融天皇の同母兄。 第一皇子の広平親王を押しのけて生後間もなく立太子。 時の権力者である藤原実頼・師輔の兄弟の力が働いていたと思われる。 967年村上天皇の崩御を受けて18歳で即位。この時初めて紫宸殿で即位式を行った。 精神に病があり皇太子の時代から問題になっていたことから、藤原実頼が関白についた。 村上天皇の第四皇子為平(ためひら)親王と、守平親王の間で 冷泉天皇の皇太子(皇太弟)をめぐって安和の変があり、 969年、円融天皇(守平親王)に譲位。譲位後は冷泉院上皇と称される。 62歳で崩御。記録では死因は赤痢とされている。 以後後一条天皇の即位まで約50年間弟の円融系との皇位迭立が続き、円融系を父方、 冷泉系を母方とする曾孫の後三条天皇の即位で両皇統は融合される事となった。 上皇になった際の名称は、現在の二条城の東北に嵯峨天皇が造営した 離宮「冷然院」が後に後院(上皇の御所)となった「冷泉院」に由来する。 冷泉天皇の奇行 冷泉天皇は容姿が非常に端麗であったが、皇太子時代から精神の病ゆえの奇行が目立った。 大江匡房が記した『江記』などにより、以下のエピソードが挙げられる。 足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた。 父帝(村上天皇)に手紙の返事として、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた。 清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ。 病気で床に伏していた時、大声で歌を歌っていた。 退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難するときに牛車の中で大声で歌を歌った。 これらの奇行と当時の摂政だった藤原実頼と外戚関係を持たず、 逆に有力な跡継ぎとされていた為平親王が伯父の源高明を舅とし、藤原氏を刺激した (安和の変の伏線となる)事等が僅か2年で退位する原因となった。 もっとも退位後は在位時のプレッシャーがなくなったのか、 61歳まで生きたが、師貞親王(花山天皇)をはじめとする皇子女や弟円融天皇、 その皇子の一条天皇等多くの親族に先立たれたのは皮肉な事であった。 しかし、天皇の血統は確実に孫娘の禎子内親王をもって、 没後円融系と融合される事となったのである。 円融天皇(えんゆう てんのう) 天徳3年(959年)3月2日 - 正暦2年(991年)2月12日 在位:安和2年(969年)8月13日 - 永観2年(984年)8月27日 第64代の天皇。諱は守平(もりひら) 康保4年(967)9月1日、九歳にして、同母兄の為平親王を飛び越えて立太子。 それ以前には3ヶ月余りにわたる皇太子の空位があった。 為平親王が源高明の娘を妃にしていたため、これを嫌った藤原氏の策略による安和の変で、 源高明が失脚すると、冷泉天皇の譲りを受けて即位した。 即位時11歳であったので、太政大臣藤原実頼(さねより)が摂政に就いた。 天禄元年(970年)に実頼が薨去すると、天皇の外舅伊尹(これまさ)が摂政を引き継いだ。 同三年、伊尹が在職一年あまりで亡くなると、その弟の兼通・兼家の間で、 摂関職を巡って熾烈なる争いが行われた。 天皇は亡母の遺訓に従って兼通を関白に任じて、さらに貞元2年(977年)に 関白兼通が重病に陥ると、兼通の要望に従って遠縁の藤原頼忠を後任とした。 これは兼通の権勢もあるが、兼家が当時兄の冷泉上皇には娘・超子を納れていたにも関わらず、 天皇である自分の許には娘を納れていなかったために天皇も兼家に含むところがあり 娘・遵子を納れていた頼忠の方に好意を抱いていたとする見方もある。 その後兼家も娘・詮子を納れ、天皇の唯一の皇子女である一条天皇(懐仁親王)を儲ける。 にもかかわらず、「素腹の后」遵子を中宮に立てた。 一連のことは兼家の恨みを買い、彼は娘詮子・外孫懐仁親王ともども、 里第に籠って出仕しなかった。 これに対して天皇も2度の内裏の焼失のの際に故兼通邸の堀河殿(退位後も御所として使用)や 関白頼忠邸を仮の御所として兼家への依存を拒むなど、両者の緊張関係が続く事になる。 かように藤原氏の勢力争いに翻弄され、永観2年(984年)、懐仁親王の立太子を条件に 花山天皇に譲位。 一条朝には幼帝を指導して強い発言権を持ち、院政の意図があったともいうが不詳。 花山天皇(かざんてんのう) 安和元年(968年)10月26日 - 寛弘五年(1008年)2月8日 在位:永観二年(984年)8月27日 - 寛和二年(986年)6月23日 第65代の天皇。平安時代中期にあたる。諱は師貞(もろさだ)。 安和二年(969年)、叔父円融天皇の即位と共に皇太子になり、 永観二年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。 生後10ヶ月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父伊尹の威光によるものだが、 17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚を持たなかった事は、 二年足らずの在位という後果を招いた。 関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは、 帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成であった。 義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など、革新的な政治を行ったが、 程なくして天皇が退位したのに殉じて遁世した。 19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。 突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原?子が 妊娠中に死亡したことを素因とするが、 『大鏡』では更に、藤原兼家が、外孫の懐仁(やすひと)親王(一条天皇)を 即位させる為に陰謀を巡らした事を伝えている。 兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家するとそそのかし、 内裏から元慶寺(花山寺)に導いて出家させた。 ところが天皇落飾の後、道兼は親に断ってくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまい、 天皇は欺かれた事を知って歯ぎしりをしたと言われている。 花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、 乱心の振る舞いを記した説話は『大鏡』『古事談』に多い。 その一方で、彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、 ユニークな発想に基づく創造はたびたび人の意表を突いた。 『拾遺和歌集』を親撰したともいわれる。 出家後は比叡山・熊野・播磨書写山を転々とし、厳しい修行に勤めたあげく、 大変な法力を身につけたという。 正暦の頃、帰京し、近衛南・東洞院東にある邸に住んだ。 この邸はのちに花山院と呼ばれ、「花山天皇」の追号の由来となった。 だが、晩年には?子の妹と関係を持とうとしたところ、 内大臣藤原伊周との間で揉め事(両者が交際していた妹はそれぞれ別の妹であったが、 伊周が法皇に横恋慕されたと勘違いしたのだと言う)を起こして、 遂には伊周と弟・藤原隆家が法皇に矢を射掛けて、矢が法皇の袖を突き通した上に 別の矢によって法皇の従者を死亡させるという事件を起こした(「長徳の変」)。 一条天皇(いちじょう てんのう) 天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日) 第66代天皇。在位は寛和2年(986年)6月23日 - 寛弘8年(1011年)6月13日。 名は懐仁(やすひと・かねひと)。 永観2年(984年)、花山天皇の時、皇太子に立てられる。 寛和2年(986)6月23日(8月1日)、花山天皇が内裏を抜け出して出家してしまったために、 数え年7歳で即位した(孫の早期即位を狙った兼家の陰謀と言われる)。 皇太子には冷泉天皇の皇子居貞親王(三条天皇)を立て、 摂政に藤原兼家が就任した(のちに関白)。 兼家の死後は長男の道隆が引き続き外戚として摂政・関白を務め、 一条天皇の中宮に娘の定子(ていし)を入れるが、長徳元年(995年)に病没。 代わりに弟の道兼が関白に就任するがわずか7日後に没し、 道隆の子伊周との争いに勝利した道隆・道兼の弟道長が、 姉で天皇の生母の詮子の推挙を受け、内覧となって実権を掌握した。 道長は先に中宮であった定子を皇后とし、 娘の彰子(しょうし)を中宮に立てて、一帝二后の先例を開いた。 一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、 皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって 平安女流文学が花開いた。 天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。 音楽にも堪能で、笛を能くしたという。 また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。 また、天皇が道長を関白とせずに内覧に留めたのは、 天皇自身が長ずるにつれ、曽祖父の醍醐天皇・祖父の村上天皇のように、 摂政関白を置かずに親政する事を志したのと、 道長自身も、当時閣議に出れない決まりがある摂政関白よりも、 閣員の首座として実権を掌握しようとした事が一致した為で、 これにより、後に大江匡房が『続本朝往生伝』で藤原実資や藤原行成等の 有能な人材を輩出したと称えたほど、有為な政治体制が確立した。 その一方で、鎌倉時代初期に書かれた道長の6代目の子孫にあたる慈円の著した 『愚管抄』によれば、天皇の死後道長は天皇の遺品の中に一通の手紙を発見し、 その中には「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書かれていて、 これを「道長の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長は その文を焼き捨てたという一件がある。 これは摂関家にとっては不都合な事実であるが、 慈円は事実関係そのものは否定せずに、天皇の認識不足を激しく責めて 道長の忠節を称えている。また、これと似たような話は同時期に書かれた 『古事談』にも記載されていることから、この話は実話かそれに近い出来事があり、 天皇と道長の関係が必ずしも順調に行っていなかったのではと見る説もある。 安倍晴明が在世していた頃の天皇の略歴などを、集めてきました。 この時代は、皇室においても、呪いや、呪詛が信じられていたことがわかります。 安倍晴明のオカルティックな逸話は、当時の社会では何を持って起こっていたのか。 ますます、興味を惹かれます。 | 以下資料収集中。。。 2014年2月 |