![]() 百鬼夜行 平安時代の鬼 近・現代の鬼 現代の日本人が、鬼と言われて一般的に連想する姿は、頭に角と巻き毛の頭髪を具え、 口に牙を有し、指に鋭い爪が生え、虎の毛皮の褌を腰に纏い、 表面に突起のある金棒を持った大男である。 これは、丑の方と寅の方の間の方角(艮:うしとら)を鬼門と呼ぶことによるもので、 牛の角と体、虎の牙と爪を持ち、虎の皮を身に付けているとされた。 この姿は平安時代に確立したものである。 酒呑童子は赤毛で角があり、髭も髪も眉毛もつながっており、 手足は熊の手のようであるとされている。 鬼は元々はこのような定まった姿は持っておらず、 語源の「おぬ(隠)」の通り姿の見えないこともあった。 まれには、見目麗しい異性の姿で現れて若い男や女を誘うことがある。 現在の鬼の姿は仏教の羅刹が混入したものである。 民話に登場する鬼は、金または栗色の髪で赤い肌である事が多い為、 難破漂着した白人を、外国人を知らない民衆が見て 怪物だと思い込んだのではないかと言われている (色素の少ない肌は日焼けすると赤くなる)。 百鬼夜行 百鬼夜行とは、平安時代に都の中を歩いてゆくとされた化け物行列のことである。 『宇治拾遺物語』巻一の十七で修行僧が龍泉寺という寺で、百鬼夜行に遭った話が伝わっている。 また、『今昔物語集』にも巻第十四に若者が百鬼夜行に遭ったという話が伝わっている。 当時、百鬼夜行を目撃すると死んだり病気になるなどと恐れられていたが、 この二つの話はどちらも信仰が身を助けたという話になっている。 節分(せつぶん) 節分の行事は宮中での年中行事であった。 延喜式をひも解くと、宮中ではこの日、彩色した土で作成した牛と 童子の人形を大内裏の各門に飾ったもの。 もともと、この節分の鬼を払う悪霊ばらい行事は 平安時代頃から行われている「追儺」(ついな)から生まれた。 追儺(ついな) 追儺(ついな)とは、大晦日(12月30日 (旧暦))の宮中の年中行事であり、 平安時代の初期頃から行われている鬼払いの儀式。 追儺とはもとは中国の行事であり、この行事が日本に輸入され、ついに宮廷の年中行事となった。 現在の節分の豆蒔きの元となった行事である。 追儺(ついな)儀式の概要 方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負った役人(大舎人(おおとねり))と、 方相氏の脇に仕える?子(しんし)と呼ばれる役人(特に役職は決まっていない)が二十人で、 大内裏の中を掛け声をかけつつ回った。 方相氏は袍(ほう)を着、金色の目4つもった面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯をもった。 方相氏が大内裏を回るとき、公卿は清涼殿の階(きざはし)から弓矢をもって方相氏に対して弓をひき、 殿上人(でんじょうびと)らは振り鼓(でんでん太鼓)をふって厄を払った。 五芒星(ごぼうせい) 古代西洋 歴史的に確認されているもっとも古い五芒星の用法は、 紀元前3000年頃のメソポタミアの書物の中に発見されている。 シュメール人は下向き五芒星を「角・小さな空間・穴」などの意味を表す絵文字とした。 バビロニアでは、図形の各側面に前後左右と上の各方向を割り当て、 それぞれ木星・水星・火星・土星、そして上に地母神イシュタルの現れとされた金星を対応させた。 五芒星に五惑星を対応させる考え方は、後のヨーロッパにも見受けられる。 また、火・水・風・土の四大元素に霊を当てはめた5つのエレメントにも それぞれの頂点が対応させられ、それは現在でも魔法などのシンボリズムに使われている。 陰陽道と安倍晴明の桔梗印 五芒星は、陰陽道では魔よけの呪符として伝えられている。 印にこめられたその意味は、陰陽道の基本概念となった陰陽五行説、 木・火・土・金・水の五つの元素の働きの相克を表したものであり、 五芒星はあらゆる魔よけのお札として重宝された。 日本の平安時代の陰陽師、安倍晴明は五行の象徴として、五芒星の紋を用いた。 キキョウの花の形との類似から、この紋は晴明桔梗紋などと呼ばれる。 現在も晴明神社の神紋などにみることができる。 六芒星(ろくぼうせい) 六芒星(ろくぼうせい)または六角星(ろっかくせい)、星型六角形(ほしがたろっかくけい)、 六線星型、清明紋(せいめいもん)、 ヘキサグラム (Hexagram) とは、星型多角形の一種で、六本の線分が交差する図形で、 六角形の各辺を延長することでできる。ユダヤ教では、この図形を神聖なものとして見ている。 このため、ユダヤ人の国であるイスラエルの国旗には ダビデの星と呼ばれる青色の六芒星が描かれている。 式神(識神、しきがみ、しきじん。式の神、文献によっては式鬼(しき)、式鬼神とも) 陰陽師の命令の下で、様々な不思議な現象を起こすとされる霊的存在のことである。 「式」とは「用いる」の意。 また、四国の高知県に伝わる陰陽道の一派いざなぎ流では、式王子(しきおうじ)と呼ばれる。 これらは和紙札の状態(式札と呼ばれる)で術師が携帯していることが多く、 使用時には鳥や獣等へ術師の意志で自在に姿を変える。 比較的有名どころでは、陰陽師・安倍晴明が使役したという式神に十二神将(十二天将)がある。 その神秘性と知名度からか、陰陽師もしくはそれを下地にした物語の素材として登場する事が多い。 鬼についての仮説 鬼が鬼として認識されたのは、平安時代と言われています。 平安時代以前は、悪霊や妖の類の存在は怖れられていましたが、 鬼の存在は確認できていないようです。 平安時代以前にも呪術の存在はあったようですが、 鬼に関しての記述は、この時代からが中心です。 その平安時代に、宮中で大きな勢力となっていった陰陽寮と陰陽師。 彼らは、当然、鬼の言葉を理解することもできたでしょう。 また、彼らが使っていた式神は、式鬼神とも書かれていた場合もありました。 鬼の正体が、異国人であり、鬼と戦い、鬼を操る陰陽師が 異国の言葉を知っている人だったとしたら。 そして、異国の文化・技術をいち早く平安時代の日本で使っていたとすれば、 今昔物語や、宇治拾遺物語に残る摩訶不思議な現象に関しても、 説明がつくのではないかと考えます。 有名な陰陽師「安倍晴明」に関しても、謎の多いところがあります。 特に出生の言い伝えなどは、意図的に事実を隠匿しているような気がします。 阿倍野の生まれとの説もありますが、遣唐使として唐に渡ったとの説もあります。 あるいは、陰陽師と呼ばれた人たちの一部は、異国からやってきた人だったのでは? 律令下の陰陽寮の位置付けの変遷を見ていると、そんな気もしないではありません。 鬼が、陰陽師たちによって意図的に平安京に出現させられたものなら。 そして、その鬼たちは陰陽師以外の日本人には理解できない異国の言葉を話していたなら。 ほとんど根拠のない仮説ですが、平安時代に勢力を伸ばした陰陽師と、 勢力を伸ばす陰の役者のように見える鬼について考えてみました。 百鬼夜行は、航海で傷付いた異国の人が人目を避けて、 夜の平安京を歩いていたのなら。 時間のある時に参考にできる文献などを探して、考えてみたいと思います。 参考文献 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 以下資料収集中。。。 |